立石寺(山寺)で

ひとこと

山寺に訪れたのはこれで四度目である。
一度目と二度目は、当社の社員旅行。確か当時の専務である私の母がサクランボ狩りをして口一杯にほうばっていた光景も記憶にあるので、30年以上前かもしれない。
まだ若い時だったので一気に奥の院まで登り詰め、素晴しい景色を眺めながら清々しい風に包まれたことを思い出す。

三度目は、家内との旅行で訪れた。今から8年前。五十路を超えたメタボ系親父には一気に奥の院まで登り詰めるのは少々きついので、休み休み奥の院に向かった。

立石寺は、山形市にある天台宗の寺院で、「山寺」の通称で知られている。どうも悪縁を切るという寺として信仰を集めているようだ。
一般道から108段ある石段をまず上り山道に入る。山門で巡拝料を払い、玉こんにゃくを尻目に登り始める。すると程なく姥堂(うばどう)の怖い顔が目に入る。今まで犯してきた罪穢れを暴かれたような気持ちになり足早に姥堂を過ぎ去り先に進む。

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中腹まで行くと頃合い良くちょっとした踊り場的なところあがあり、ベンチに腰掛け一休み。
そこは、「せみ塚」だ。スーとした心地よさをひやっとして湿った空気が演出する。
あたりには、たくさんの杉の木が天を目指して整然と伸びている。
ただひたすら真っすぐに。
そして、静かに皆無言で何も言わず伸びている。
更にふと見まわすと、地表に出ているだけでも2~3メートル程もあろうかという大きな岩を覆うように
根を張らせそびえ立つ杉が居る。
こんな厳しい場所なのに何も無かったように伸びている。

素晴しい生きざまだ。

しかも他と同じように天を目指して立派に生きている。
ただひたすら真っすぐ、そしてまた 無言 である。
彼は、なぜそこに、その岩の上に生まれてきたのだろう。自分で選んだのか、いやそこが与えられたのだ。

そんな厳しい環境でもただひたすら真っすぐ無言で伸びている。皆と同じ高さまで延びている。太陽を浴びねば生きられないのだ。

そんな杉の木の生きざまに感動を覚えた。自戒の念も抱いた。素晴しいことを教えてもらったと思った。
自分に与えられた環境や境遇の中で精一杯努力して生きていくこと。
その杉の生きざまに比べ、人は環境や境遇の良し悪しに不平不満を述べ、人を妬みつらみ我が侭を言い生きていく。それも生きざまかも知れないが、私たちは自分に与えられたものをしかと受け止めその中で精一杯素直に生き抜かねばならないのであろう。
ただひたすら真っすぐに、そして明るく前を向いて。

そんな杉の生きざまを今一度見たくて8年ぶりに4度目の山寺に行ってきた。
「せみ塚」のその杉は、大きい岩を覆う根がより一層太く逞しく成長していた。
すげーなあ。

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立石寺・山寺は、悪縁を立つという縁切り寺。
私は、山寺の杉に会うと[邪念]という者との縁をきってもらえる気が一瞬する。
ここへ来ると心が洗われるような気になる。
邪念に満ち満ちたらまた山寺に行こう。せみ塚の杉がまた何かを教えてくれる。
そして同時に私の膝もぶるぶる笑うはずだ。

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